この時期には定窯白磁刻花蓮弁文輪花鉢、白定金彩瑞花文碗、紅定金銀彩牡丹文鉢等の逸品を取り扱った。
「ハウス・オブ・ヤマナカ」 朽木ゆり子 2011年• いったい何を言っているのか? 入社3 か月目の若僧には極めて難解であった。
案の定堆く積もった灰がぼろっと落ちて、鈞窯の鉢の中に転がった。
どんな人が来るのだろうかと店の入口で待っていると、70 歳を超えたくらいの爺さんが入って来た。
杉山さんに眼を移した。
川島公之 僕が入社した30 年前頃には、叩き上げの目利きの先輩方がたくさんいた。
毎日新聞 1967年2月11日• 高橋社長はそのまま応接間に入ったが、杉山さんはトイレから一向に出て来ない。 (昭和25年) - アメリカ合衆国を初訪問、各地美術館を視察。
20(昭和35年) - 京橋2丁目の自宅本社新築開店。
「北京かよい」と言われる当時の美術品取引が継続可能となり、繭山順吉は事業継承者の自覚を強くした。
唐王朝は300年に及ぶ大国で、当時よりわが国との関係は深く、数多くの作品が将来されていたことが、出土遺物によって明らかになっております。
、における、絵画彫刻工芸品の流行によって高まった需要に応えて、海外にを紹介し、結果として自然に日本の古美術の取引量も増加していった。 (平成6年) - 株式会社繭山龍泉堂会長に就任。 「高橋君、これは、名品だよ」その時、僕は何て世界に入ってしまったのかと不安に襲われた。
17・・・などの仕入れに同行し中国の陶磁器の商売を学ぶ下積み生活は父松太郎のまで続いた。
僕は、杉山さんのくわえている煙草がだんだん短くなって来てそれに応じて灰が 堆 ( うず )たかくなっていくのに眼が行って、この人はいつ灰皿に煙草を置くのだろうかと、そればかり気になっていた。
「感謝」 繭山順吉 1993年• (昭和32年) - 欧州各国を初訪問、各地美術館を視察。
「CHINESE CERAMICS IN THE WEST」 1960年 繭山順吉編• おい、もうちょっと回せ。
それまでの人生や経験をまとめていく作業に多くの時間を割いた。
色がくすんでいて形も歪んでいる。
僕の眼はただ、空を掴んでいた。
日本経済新聞 1999年9月17日 外部リンク [ ]• 「支那古陶磁昔ばなし」繭山順吉 1997年• すると杉山さんが「おい、もうちょっと銀座に寄せろ」「はっ? 銀座?」「行き過ぎだ、日本橋に戻して」「日本橋?」何回かやり取りしているうちに、「銀座」は左、「日本橋」は右ということがわかった。
「美術商の百年 東京美術倶楽部百年史」 1999年• 「七面倒臭いなあ、右とか左とか言ってよ」と内心思ったが、当然文句を言うことなどできず、杉山さんの指示にしたがって古砡を動かした。
日本美術の国際的な評価の高まりとともに、日本人の「を紹介する」という役割を請け負い美術品を通して両国の親善に務め 、民間文化外交官のような役目を果たした。 (昭和40年) - 繭山龍泉堂を株式会社とし初代代表取締役社長に就任。 高橋社長を見ると、満足気に微笑んでいる。
13美術商 [ ] 6歳で北京からへ一家で転居し、父繭山松太郎が最終的な家業の拠点と定めたの地に順吉自身も終生暮らすこととなる。
これ ( ・・ )じゃなくて、 それ ( ・・ )だよ」と言って、何だか背の低い古砡の琮を指さした。
経歴 [ ] 生い立ち [ ] の父・繭山松太郎、母・繭山みよの長男として(現・のうち)に生まれる。
それまでは父に同行していたの取引先へ単身向かうと、現地の同業者による歓迎会が催されるほどの歓待を受け、公平に仕入れの機会が与えられた。 1913年(大正2年)11月22日 - に父繭山松太郎、母繭山みよの長男として生まれる。
杉山さんは、フィルターの無い煙草をくわえたまま、その年の6 月に高橋社長がNY とロンドンで買い付けてきた品物を一つひとつ丁寧に手に取って見ていた。
1994年()に株式会社繭山龍泉堂会長職に就任、1999年()に自らが、その在り方への志を構想に込めた店舗自宅にて静かに息を引き取った。
家族と店を日本に残して、かつて美術商として訪れていた中国大陸のその地に、戦場として足を踏み入れることとなった。
日本における中国陶磁に対する鑑識眼が養われるにつれ、仕入れた商品を自身の愛玩対象として秘蔵する業者も少なくなかったなか、順吉は「」として伝えることに徹した。
すると杉山さんが突然振り向き、「おい、坊や、それをその上に乗せてくれよ」と言った。
(昭和24年) - 株式会社東京美術倶楽部取締役就任(昭和52年5月辞任)。